広辞苑で「有職」とは

  1. 朝廷や公家の儀式・行事・官職などに関する知識。
    またそれに詳しい人。
  2. 学識のあること。またその人。学者

と書かれています。

言語発生からの経緯を見ると、まず上記 (2) の学識のある人を有識と呼びました。しかし鎌倉時代より朝廷や官職についている職業の方々も、知識のある方であるという意味で、有識(ゆうしき)を有職(ゆうそく)と呼ばれるようになりました。

そのころから儀式、官職、行事などの法式や知識を有職と呼ばれるようになりました。 そして近代になり、材質、色彩、文様などを公家の法式に適うとされた着装の織物は、有職織物と呼ばれ、他の織物と区別され、今日に至っています。


有職織物を承継してきた人々の簡単な歴史

1346年以前 宮中内臓寮御用装束調達高田家が有職織物の製作を行う。
1346年
(室町時代貞和二年)
高田装束研究所 京都御所・蛤御門前にて創業。
(現在まで国立博物館等の委嘱により歴史的染色品の調査復元を数多く行う。)
1467年応仁の乱以後 京都西陣の跡地に機織を再開し復興し、1571年31家のうち6家が内蔵寮織物司に任用される。
明治維新の後 宮中装束調進の管掌は、宮内省が取扱い内蔵寮の管掌は廃止。
明治20年 高田家が東京に織物工場を設け、優れた技術者を京都より派遣された。
大正15年 高田装束研究所 東京織工場で文羅(もんら)製法に成功。
羅(ら)とは、絡み織を用いた目の粗い絹織物の一種であり、室町時代まで五位以上の貴族の冠には文羅といって模様を織り出した羅が使われていた。
昭和2年より 高田装束研究所が京都錦工場製織技術主任の喜多川平朗と共に正倉院宝物羅、錦、綾など調査復元。
喜多川平朗(1898-1988):京都の俵屋17代目、染色工芸家。昭和31年羅(ら)で人間国宝。昭和35年有職織物で人間国宝。昭和63年死去。
明治35年 喜多川平朗の妻の弟 福岡金次郎 がフクオカ機業を開業。
昭和21年 福岡金次郎の子 福岡久明が西陣機業株式会社(現 有限会社フクオカ機業)設立。久明が平朗氏から学ぶ。
現在 福岡久明から技術と伝統を引き継いだ久明の子 福岡裕典(西陣織製織部門伝統工芸士)がオリジナルの製品を創りはじめる。平成25年日本伝統工芸展にて「有職唐花筥形」が入選している。その他オリジナル作品が数々製作され、今回ホームページでアップし販売することとなった。

当サイトで販売している有職帯の織技法の説明

  1. 全面に亀甲(きっこう)や唐草(からくさ)などの連続紋を織り出して地紋(じもん)とします。
  2. 地紋の上に上紋(うわもん)という丸文や花鳥文などを、地とは別の色糸で飛び飛びに織り出したものを
    二陪織物(ふたえおりもの)といいます。

二陪織物にも様々なものがありますが、通常は、横糸を刺繍糸のように浮かせた浮織物の地紋に絵緯(えぬき.紋をだすだけに使う色糸)を使って上紋を、ふっくらと浮くようにして織り上げたものです。

地紋には錦という織技法を用いています。錦とは、経糸(たていと)ないし緯糸(よこいと)の二色以上の色糸を使って文様を出した華やかな織物をいいます。販売しているものは、すべてこれらのものです。技法の図解をPDFで添付しておりますのでご覧ください。